企業経営者が個人の資格で参加し、国内外の経済社会の諸問題について、一企業や特定業界の利害にとらわれない立場から自由に議論し、見解を社会に提言することを特色としていた。発足は、
第二次世界大戦敗戦後、占領軍による財界パージで旧経営陣は一掃され、各企業では部長クラスの中堅幹部がいきなり経営の舵取りを担うこととなった。戦後の混乱状況が続く中、若手経営者たちがお互いに切磋琢磨しながら親交を深める団体が必要であるということから、
諸井貫一(秩父セメント常務)と
郷司浩平(重要産業協議会事務局長)が中心となって、米国のや全米製造業者協会を参考にしながら骨子をまとめ、
1946年4月30日に東京丸の内の
日本工業倶楽部にて設立総会が開かれた。設立趣意書には、メンバーの並々ならぬ意気込みと理想主義があった。「日本はいま焦土にひとしい荒廃の中から立ち上がろうとしている。新しき祖国は人類の厚生と世界文化に寄与するに足る真に民主々義的な平和国家でなければならない…われわれは経済人として新生日本の構築に全力を捧げたい」
戦後
GHQは
ポツダム宣言に基づき、経済の民主化を推し進めていった。同友会としても議論・見解を整理する必要に迫られ、
1947年1月、
大塚万丈を委員長とする経済民主化委員会を発足させた。大塚は精力的に調査活動を進め、企業活動の中心は株主でなく経営者に置かれるべきであるとした
ジェームズ・バーナム(James Burnham)の『経営者革命』などを参考にして試案をまとめ、
1947年8月に「修正資本主義の構想」という表題で起草された。
大塚試案は企業の民主化改革を大胆に謳ったもので、
(1) 企業は経営、資本、労働の三者で構成される協同体とする、(2)企業の最高意思決定機関として「企業総会」を置き、経営、資本、労働の三者の代表で構成する、(3)企業利潤の分配は、経営、資本、労働の三者が対等の権利を有する 、という画期的な内容であった。しかしながら、あまりにもラディカルであったため、財界の保守派から資本主義の否定につながると批判を浴び、同友会内部でも、
青木均一や
磯村乙巳らの保守派は激しく反発した。事態収拾のため、大塚試案については同友会見解として機関決定しないこととした。全体の合意を得るには至らなかったものの、流行語となった「
修正資本主義」という言葉とともに、同友会の進歩性を大きく世間に印象付けることとなった。また、これ以後労使協調をベースに問題の解決を図る姿勢が同友会に定着することとなり、大塚試案が果たした役割は決して小さいものではなかったといえる。